牧桃子 / Momoko Maki

祈りの舞・命の舞・即興ダンサー 牧桃子

天と地と繋がる祈りの舞
血から湧き上がる命の舞
それらを循環させ、融合させる天血の舞
何者でもなく、天と人との架け橋として
この身を捧げて命の貴さを伝える

身体が教えてくれる、祈りを舞う

1970年兵庫県尼崎市に生まれる。

生まれつき手の親指が動かず、手術をしなければ治らないと言われていた。が、母が毎日根気強く、童謡「むすんでひらいて」を歌いながらグーパーグーパーを続けてくれたことで、ある日、真似ようとしていた指が動くようになったという。

幼い頃から身体が弱く、近所の友だちと遊んでいてもすぐに疲れてしゃがみ込んでしまうような子どもで、小児喘息もあった。幼稚園のお遊戯会が、踊りの初舞台。小学四年生のとき、生後三日で弟を亡くし、その頃から生と死について考えるようになる。友だちとお歌ごっこをするときも、当時流行っていた歌の真似をするのではなく、シャンソンのようなどこか哀愁のある自作の唄を歌っていたそうで、幼い頃からゴーイングマイウェイな子どもだったらしい。

中学から演劇をはじめたが、同じ頃、心臓疾患が見つかり通院がはじまる。中学1年の夏にはアメリカ西海岸へ旅行に行かせてもらい、最初は食事にも馴染めず不安だったが、最後には誰よりも旅を楽しんでいたように思う。帰国便は旅行会社の手配ミスでファーストクラスとなり、機長の計らいで操縦室に入れてもらうというおまけつきだった。

高校でも演劇部に所属し、学校は休んでも部活には行くなんてこともして、高3になるまで進学はまるで考えていなかった。この頃はまだ、野外活動や水泳など行事に参加してよいかを、その都度診断してもらう生活が続いていた。両親が共働きだったため、幼い頃から祖母に育てられており、その祖母が倒れて車椅子生活になったことから、高校2年に上がる春に同居のため宝塚市に引っ越しをする。高3の夏休み前に受験を決意し、部活を続けながら受験勉強をはじめた。

平成元年、1989年、受験を目前に祖母が他界。近所の人たちが自分の泣き声で祖母の死を知ったというほど、深く落ち込んだ。受験すら億劫になるほどだったが、第一希望の近畿大学文芸学部芸術学科演劇・芸能専攻と、第二希望の大学、両方に合格。通学の距離や体力を案じた両親や担任は、家から近く偏差値も高い第二希望を勧めたが、迷いなく近大への進学を決める。演劇・芸能専攻の授業や稽古は多忙を極め、それまでのように頻繁な通院を続けることが難しく、自己判断で通院をやめた。1993年、学部長賞を受けて卒業。案外身体は持ちこたえたが、実際には無理を重ねていたようで、休める日は寝て過ごし、年に一度は腰痛で立てなくなることを繰り返していた。

同年、同期5名と舞踊グループ「じゃうかあず」を結成し、大阪を拠点に活動を開始。主にソロ作品を創作・発表し、演出も担当する。1995年、4月の本番に向けて稽古を重ねていた矢先、阪神淡路大震災を経験。創作していることと自らの感情が一致せず、それまでの活動スタイルに疑問と葛藤が生まれ、独自の舞のあり方を模索しはじめる。1998年には「桃の木会」を立ち上げ、童話や詩の世界を舞と朗読で表現する舞踊朗読劇の舞台づくりをはじめた。

そして2001年、アメリカ同時多発テロ事件が起こる。生中継の映像に大きな衝撃を受け、そこから一ヶ月、毎晩泣きながら、テロ、戦争、宗教、民族、善悪について考え続けた。けれど、どれだけ考えても行き着く先は「なぜ自分は踊るのか」という問いだった。家族や友人が事件に巻き込まれたわけでもないのに、なぜこれほど心が揺さぶられるのか。10月に入る頃には食事も喉を通らなくなり、踊る気力さえ失いかけていた。

テロから一ヶ月が過ぎた2001年10月8日、自室に閉じこもり、耳をふさぎ、目を閉じ、思考を止めようとヘッドフォンをして音楽を聴いた。すると胸の奥から「祈り、祈り」という声が沸き上がり、同時に何かしらのエネルギーを感じた。踊りたい、踊らなければ。この日、踊りとは自分にとって祈りの行為なのだと意識化した。

祈りの舞を舞うとき、そこに思考はない。空っぽ、空。身体が知っていて、身体が教えてくれる。頭で考えて振り付けるのではなく、その時々に身体が導くままに、天と地と繋がるような感覚とともに、祈りが舞となってあふれ出てくる。以来、「祈りの舞ダンサー」として、劇場という枠にこだわらず、その時々の思いをストレートに表現する即興で舞うスタイルで活動をはじめる。

2002年、舞踏ユニット「幸海姫(さきみのひめ)」代表・坊内由香氏の誘いを受け、天然肉体詩人・藤條虫丸氏率いる「Physical Poets」に参加。以降、舞踏家や様々なミュージシャンと共演を重ねるようになる。「浄化」こそこの世に最も必要なことと考え、愛と平和を希求し、祈り、舞うことで観客に安らぎや希望、勇気といった光をともなう感動を届けることを使命として、オリジナルの舞による活動を展開していく。2003年からは龍笛奏者・出口煌玲氏とともに音楽と舞のライブ活動をはじめ、活動の幅を広げる。同年、関東を拠点とする異業種混成ユニット「桃と安酒」(作曲家・酒井康志、舞踏家・安田理英、舞踊家・牧桃子)を結成。2004年2月末から4月半ばまで、約2ヶ月間パリに滞在した。

帰国後の2004年5月頃、日常生活もままならないほど体調を崩し、踊れなくなったことをきっかけに、無理のない短時間でより効果的なトレーニング方法を模索しはじめる。同年6月21日、甲状腺機能低下症(橋本病)と診断を受け、投薬治療を開始。同年7月には、リハビリを兼ねて高砂BUTOH協同組合主催の発表会に参加し、舞踏家・桂勘氏の弟子であるきよこ氏、マサト氏と出会う。

2006年2月、「日色さくら」の名で役者デビュー。同年5月、主宰・愛宕メロン氏の呼びかけによりメロンオールスターズの結成メンバーとなる。同年より、自身の経験を生かし、出口煌玲氏が講師をつとめる身体セミナーのアシスタントもはじめた。2008年からは、舞踊朗読劇・音と舞のシリーズ「輝(ひかり)の源」を企画し、ライブ展開していく。

2009年4月、坊内由香氏と共同で「舞心塾」を主宰し、大阪・三重(同年10月)で開催。この舞心塾の準備体操として、ダンサーとしては不利とされる甲状腺機能低下症という持病を強みに変え、心と身体の相互関係を意識しながら身体への負担の少ない動きを探求した「舞心体操」を考案する。誰もが楽しみながら《心と身体と宇宙のハーモニー》を感じられることを目指したものだ。

2010年11月、ルビー産業株式会社の代表取締役に就任し、これまで個人で続けてきたダンス・ワークの活動を、会社の事業のひとつとして展開しはじめる。2011年3月には、播磨陰陽師・尾畑雁多氏、龍笛奏者・出口煌玲氏、坊内由香氏とともにユニット「舞心-maishin-」を結成し、各地で夢ライブを展開。同年4月、癌の疑いから活動を控え、マクロビオティックの松岡四郎氏の指導のもと、体質改善と治病を目的とした食養生活を開始する。同年10月、一生服用しなければならないと言われていた持病の薬を手放すことに成功した。

そのおかげもあり、実際に腫瘍摘出の手術に踏み切るまでは、寺社仏閣をはじめ様々なイベントやライブ、舞台への出演を精力的に続けた。2013年1月23日には、ユニット舞心-maishin-のCDアルバム『音魂・言霊-OTODAMA・KOTODAMA-』を発売。スタジオで鈴を奏でながら踊り、ジャケット制作も自ら手がけた。

2011年から抱えていた腫瘍が痛みを伴うほど大きくなり、このままでは身体がもたないと感じ、2017年、手術を決意。再検査の結果、右胸を全摘。進行の早い悪性葉状腫瘍だった。

以来、身体を休めるべく活動を控えていたところに、新型コロナウイルスの蔓延が重なる。この時期からは踊りだけでなく、「こもも」として絵を描く活動もはじめた。

自分自身を振り返るつもりで書き上げた長い文章を読んでいただき、ありがとうございます。

現在は非公開で活動を続けているレッスンを今後は、このホームページをリニューアルしたことを公開したことをきっかけにして、改めて募集をかけて、ご依頼があれば応えていきたいと考えてます。

モットーは「最小限のエネルギーで最大限のパワーを!」です。

ぜひ、一緒にレッスン、踊りませんか?

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